難攻不落の要塞!小田原城総構
総構は、堀と土塁などからなる約9kmにも及ぶ小田原城の外郭線です。これは、小田原北条氏が、豊臣秀吉との合戦に備え、天正18年(1590)までに普請したものです。秀吉の大軍勢から城を守った堀の連続を歩きます。
コース
基本ルート「総構いいとこ取りプラス」と、基本ルートの石垣山展望地点から分岐するルートがあります。
また、特定の場所へのご案内などのアレンジもできます。
時間と体力に合わせてピッタリなルートを巡ってください。
1.総構いいとこ取りプラス(基本ルート)
実際にあった総構らしさを感じられるポイントを巡るルートです。
初めて総構を訪れる人は必見! また、何回訪れても新しい発見があること、間違いありません。
<地図で水色のルート>
JR小田原駅→岩槻台→久野口遺構→城下張出→山ノ神台東→山ノ神堀切→稲荷森→小峯御鐘ノ台大堀切西堀・東堀→三の丸外郭新堀土塁→城址公園藤棚 約3.5時間
駅からガイドでご案内している「総構いいとこ取り」コースに久野口遺構などのポイントをプラスしたルートです。
2.水之尾口ルート
総構の最高地点の水之尾口を探訪します。
<地図で青色のルート>
総構いいとこ取りプラスで石垣山展望地点に到着したら、水之尾口櫓台まで行き、石垣山展望地点に戻ります。 約1時間
3.早川口遺構ルート
山を下って海側の早川口遺構を訪れます。
<地図でピンク色のルート>
総構いいとこ取りプラスで石垣山展望地点に到着したら、早川口遺構を目指して山を下ります。
三の丸外郭新堀土塁→伝肇寺西→鉄砲矢場→早川口遺構→ゴール 約1.5時間
このルートでは、ゴール(解散場所)を複数ご案内しています。
- ゴール1:小田原漁港、JR早川駅が近いです。
- ゴール2:小田原駅行きのバス停の近くです。
- ゴール3:小田原城の藤棚までご案内します。
ハイライト
北条早雲公像
小田原駅西口のロータリに銅像があります。勇ましく、馬に跨り軍扇を振るっている『早雲公』です。角に松明をくくりつけた牛を従えています。
この像は、北條早雲(伊勢宗瑞)が小田原を攻めた時の『火牛の計』の話を基に小田原市内の有志家達が中心になり建立したものです。
岩槻台
この付近一帯は谷津御鐘の台、または谷津天守、さらに岩槻台と呼ばれてきました。武州岩槻城主太田(北条)氏房の本陣が置かれていたと考えられています。
氏房は北条氏政の三男、氏直の弟です。
氏房は春日左衛門尉・河合出羽守・細谷氏(比企郡井草の領主、資満か)等を引率して3000余人で籠城、小田原城の久野口・井細田口を守っていました。(『北条記』)
久野口遺構
急峻なローム層の壁が続き、その基部には空堀と土塁が左右から突出し、上方からは岩槻台がのぞいて横矢がかけられる構成になっています。
きわめて重要な虎口であることを示しています。
城下張出
総構の最も北側に位置し、北東部を守っています。
秀吉軍の陣場を一望でき、蒲生氏郷の朝ケ坂陣場へ直線で350mの距離しかありません。
更に、陣場の後方に大磯丘陵、大山のある丹沢山塊、箱根の山を見渡すことができます。
山ノ神台東
現在、堀を埋めて畑として利用されていますが、堀は地形に沿って最高点から少し低いところ(8分の位置)に造られていました。
堀は行き止まりのように見えますが、食い違いにして伸びており、敵兵が容易に移動できないようにする工夫がされていました。
山ノ神堀切
山ノ神堀切は箱根山から続く谷津丘陵を東西に分断する効果を持っていました。尾根を分断し敵兵の侵入を防ぐ堀を堀切と言います。
この堀切は、総構の堀(山ノ神堀切西)と約4mの高低差をもって接続します。山ノ神堀切西は、保存状態が良く、掻上げ土塁も見られます(写真)。
稲荷森
大外郭の中で発掘によるまでもなくその雄大な遺構を実際に見ることが出来るのが稲荷森遺構です。
四百数十年前の遺構が残る場所はそれほど多くは無いでしょう。
小峯御鐘ノ台大堀切・西堀
小峯御鐘ノ台大堀切のうち、一番西側にある堀で、深さ約9m、堀幅約30m、土塁の敷幅約13mの規模でした。江戸時代の絵図からかなり複雑な構造をしていたことが分かります。
現在は大部分が埋め立てられてしまいましたが、北側の堀と土塁が良好に残っています。3つの堀が高低差をもって接続しており、総構が地形を利用して非常に精緻に造られていたことが分かります。
小峯御鐘ノ台大堀切・東堀
東堀は当時の様子が良く残っています。幅が約20~30m、深さは土塁の頂上から約12m、堀の角度は50~60度という急な勾配で、空堀としては全国的にも最大規模のものです。
北側の起点は、現在は道路により埋め立てられていますが、かつて御前曲輪(城山競技場)を取り巻く堀、毒榎平(どくえだいら)北堀と立体的に接続し、落差は現地形で15mありました。
堀を進むと、中堀と接続するつなぎ堀や、横矢掛りと呼ばれるクランクなどの仕掛けが見られます。
水之尾口櫓台
総構の最西端で、標高約120mの最高地点にあたり北条方と対峙した豊臣方の陣を望むことができます。「小田原陣仕寄陣取図」から総構に沿って矢来が巡り、櫓が至る所に建ち並んでいたことが分かります。
図は、「小田原陣仕寄陣取図」の小田原城部分のトレース図(佐々木氏による)
石垣山展望
手前の山は富士山(ふじやま)といい小田原合戦では細川忠興が陣を張りました。
その後ろに見える山が秀吉軍本陣の一夜城があった石垣山です。一夜城は、小田原城からはわずか直線3㎞の距離でした。
三の丸外郭新堀
三の丸外郭新堀土塁は、小峰御鐘ノ台大堀切東堀の延長線上で天神山に築かれており、尾根末端部の清閑亭南側で低地部に到達します。
北条氏は、武田信玄を退けた後、三の丸外郭を構築しました。東堀、新堀は、元々は総構以前に構築された三の丸外郭の一部で、新堀は、三の丸外郭のなかで最後に作られたので「新」とつけられました。三の丸外郭(山側)は、総構が作られたことで総構に組み込まれたのです。
明治期には、天神山のほぼ全域は閑院宮家の所有となり、閑院宮載仁親王(かんいんのみや ことひとしんのう)の別邸がありました。
伝肇寺西
伝肇寺西の地点で発掘調査が行われ、堀障子が設けられた大規模な障子堀が確認されました。堀の規模は、堀幅(堀の上端幅)16.5m、堀底幅6.5m、土塁から底面までの深さ10mでした。
写真は、発掘調査時のもので、現在は埋め戻されています。
(写真は、小田原の遺跡探訪シリーズ15より)
鉄砲矢場
鉄砲と付いていても鉄砲と関係があるかどうかは分かりません。発掘調査した長さ13mにわたりほぼ遺構が確認されており、堀の規模は、土塁の幅4m、高さ2~5m、堀幅16m、外側の掻き上げは敷幅2m、高さ2mでした。
ここから一夜城のあった石垣山と細川忠興の陣場があった富士山(ふじやま)がまじかに見えます。
堀は埋め戻され、現在、光円寺の墓地となっています。
早川口遺構
左右の土塁に挟まれた細長い空間で、左右の土塁の幅は次第に狭まり先が虎口となっていました。外側の堀は、小田原用水の分流を利用しました。
明治以降は山縣有朋の側近、因藤成光の邸宅でした。堀を巧みに利用した流水庭園として早川口は取り入れられ、今でもその石組みが残されています。
